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花朝堂漫録 十 勤王歌人・伴林光平の短歌と筆跡



勤王歌人・伴林光平の短歌と筆跡

 伴林光平は「ともばやし・みつひら」とも、「ばんばやし・みつひら」とも呼ばれていて、確定していない。辞典にも双方書いている。
 ところで、光平の短冊がよく売れるのは何故だろう。比較的安く入手できるせいもあろうが、なぜか売れ残る率が少ないみたいだ。天誅組の隊士であったからなのか。

 伴林光平(1813~1864)は、幕末の国学者・山陵研究家・歌人・勤王志士。河内国南河内郡道明寺(どうみょうじ)村(大阪府藤井寺市)尊光寺(そんこうじ)に生まれる。のち大和国法隆寺に住む。名は六郎、のち光平、別に光衡・充平。号は蒿斎・斑鳩隠士、法名を周永、大雲坊と称する。
 僧侶としてよりも武技・儒学・国学・和歌を修め、歌会を催して地元の人々を指導していた。文久3(1863)年8月天誅組に加わり、中山忠光に面会して記録方を担当、天誅組最年長51歳。連戦連敗の末、9月25日奈良奉行所に自首し、元治元年(1864)2月16日天誅組隊士18名とともに京都六角獄舎にて処刑された。52歳。贈従四位。著「南山踏雲録」など。
 
 彼の短歌の短冊に話を移そう。
 2枚の内、前者は一般的な書、後者は稀少な書、異なる2種の筆跡である。
 光平の書は一種の癖字である。漢籍を書写する時の癖なのか、明朝体に似て、一直線の横棒や縦棒が目立つ。仮名の曲線に直線的な変体仮名や漢字が交じるので、特異な様相を呈する。
 文字の中に細小な部分と長大な部分がある。「鴨頭草」の短冊の「草」「き(幾)」「光」がそれ。
 「秋夕」の短冊は万葉仮名の戯訓を多用した歌で、ほとんど漢字の中に変体仮名の小さい「か(可)」と平仮名の「と」「り」が交じる。
 


mituhira-kamo-0417-1[1]

【翻字】
鴨頭草
さとの子か早穂かるなるを山田の
畔のかまつかはなさきにけり 光平

【書き直し】

   鴨頭草(つきくさ)                 光平
           
(さと)の子が早穂(わさほ)刈るなる小山田(をやまだ)(あぜ)鎌柄(かまつか)花咲きにけり 

 「鴨頭草」はつきくさ・つゆくさ。「里の子」の子はこどもに限らず、人を親しんで言う時に用い、男にも女にも言う。ここも稲刈りをしているから、里の者の意であろう。
「早穂」はわさほ。早稲の穂。「かるなる」は刈るという。「を山田」は山田に同じ。
「かまつか」は鎌柄。かまづかとも。ツユクサの異名。枕草子67「わざととりたてて人めかすべくもあらぬさまなれど、かまつかの花らうたげなり」の「かまつか」に拠るが、これをツユクサという説とハゲイトウという説がある。「鴨頭草(つきくさ)」の題詠だから、光平はツユクサの意味で使用しているのは明らかである。「里の者が早稲田の穂を刈るという山田の畔のツユクサの花が咲いたよ」。「早穂」「刈る」「かまつか」が縁語。
 なお、畔をアゼと読んだが、アゼは主として北陸・中部以西、九州にかけて分布するのに対して、クロは関東以北および九州北部の一部などに見られるので、河内・大和・山城で生活した光平はアゼと読んだと推定した。



mituhira-aki-0417-1[1]


【翻字】
秋夕
折木四〔哭〕能友呼一伏三向と成二介り
可と多馬聲蜂鳴關夕霧農空  光平

【書き直し】
  
   秋の(ゆふべ)                 光平

(かり)()の友呼ぶ頃と成りにけり門田(かどた)いぶせき夕霧の空  

 「折木四能」は「折木四哭能」の脱字。「かりがねの」と読む万葉の戯訓。「かりがね」は雁が音または雁。「一伏三向」は「ころ」。万葉の戯訓。ここの意味は頃。
「門田」は門の前にある田。「馬聲蜂鳴」は「いぶ」。万葉の戯訓。「馬聲蜂鳴關」で「いぶせき」。うっとうしい。「雁が田の面に下りてくるのを見たいのに、夕霧が立ち込めているので見えず、うっとうしいことだ」。
 すべて万葉仮名で書いてもいいところを、変体仮名の小さい「か(可)」と平仮名の「と」「り」を交ぜて、さあ読んでくださいとばかりに徴発している。地元の人々を集めた歌会などで披露したものか。「介」は変体仮名「け」の一種。片仮名もこの字から出来た。「農」は「濃」とともに変体仮名「の」の元字。

 最後に、天誅組失敗の理由について「中岡慎太郎館」(高知県安芸郡北川村柏木140)のブログ(2013年9月14日付)に簡潔な説明があった。2013年は天誅組挙兵から150年に当たる。それを記念した展覧会のブログの解説を書き改めた。

【天誅組の変】
 大和行幸が決定したことにより吉村虎太郎らはその先駆けとして挙兵を決める。
 8月14日、吉村虎太郎、松本謙三郎ら38名は天誅組を結成、公家である中山忠光を大将として、大和国へ向かった。
 17日、五條代官所を襲撃。勝利を収めたが、この直後に政変が起こった。翌日、政変を知った天誅組は、幕軍に備えて十津川郷(奈良県十津川村)に入り、1200人近い十津川郷士を徴兵した。26日に大和の高取城を襲撃するが、失敗に終わった。
 朝廷は京都守護職、郡山藩、和歌山藩、彦根藩、津藩に天誅組討伐を命じた。これにより十津川郷士は戦線から離脱した。
 天誅組は十津川から、河内(大阪府)への撤退を計るが、諸藩の警備は堅く、鷲家口(奈良県吉野郡)付近まで逃れたが進退窮まり、解散を決した。
 那須信吾、吉村虎太郎、松本謙三郎、藤本鉄石は戦死、中山忠光は脱出に成功し、長州まで落ちのびた。安岡嘉助は彦根藩兵に捕らえられ、翌年斬首された。

【挙兵失敗の理由】
 ①天誅組の「尊王攘夷」論が天皇のご意思と異なっていることが8月18日の政変で明らかとなり、天誅組は「朝敵」となり、挙兵の大義名分を失った。
 ②大和行幸を計画した三条実美と真木和泉は天誅組の行動を危ぶみ、17日平野国臣を派遣して中止するよう説得していた。
 ③主将の中山忠光とその側近たちは、河内や十津川郷士ら「外様」に対して尊大な態度で接し、幕府軍を迎え撃つ作戦も場当たり的なもので、各地の戦況報告や作戦変更等の連絡が「外様」勢には届かなかったため、「外様」勢の不満は高まり、水郡ら河内勢が離反した。さらに、9月16日には朝廷から十津川郷士に天誅組追討令が発せられたため、十津川郷士も離反した。

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