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花朝堂漫録 九 ・ヤフオクで知った歌人 小狭野屋・長好法師


 私にとってヤフオクは癒しの世界である。いろんな作歌の真贋取り混ぜた写真を展示してくれる。
 知識の少ない私が初めて知る人物や作品も多く、遅日草舎主人などは作者の略歴を調べて掲載してくれるので、この画像と略歴と自分なりの調査資料をまとめてデータを作成してゆくのは、落札しない限り無料(無量)の楽しみである。
 そんな中から今回は、短歌三首を書いた紙本小切れ(画像)を紹介しよう。

 寸法、横310×縦162mm。

【作者】 望月長好(もちづき・ちょうこう)
 元和五(1619)~天和元年三月一五日(1681.5.3) 江戸前期の歌人。
 名は重公・長孝・兼友。号は水蛙・広沢隠士・小狭野屋。信濃源氏の出身で、家は裕福だったと伝えられる。
 一三歳で初めて和歌を詠み、松永貞徳の門に入り、貞門において重要な地位を占める。
 二七歳から貞徳の伝授を受け始め、『伊勢物語秘訣』『八雲神詠秘訣』『百人一首秘訣』『源氏物語極秘之趣』などを次々に伝授した。
 宮廷歌人飛鳥井雅章との交遊もあり厚遇されたという。四〇歳で剃髪し、京都嵐山東の広沢池畔に小狭野屋なる庵を結んで隠居、詠歌と歌学研究に没頭した。
 出版を好まず、著作は少ない。
 家集に『長好師家集』がある。(出典『朝日日本歴史人物事典)



望月



 墨の濃淡の変化が自然で、文字の大小を辿ってゆけば、歌の調べが自然と理解できる。
 筆が縦横に動き、文字が伸び伸びして、日頃書き慣れた達者な筆づかいである。


【翻字】
  落花    長好
おもへともおもはぬ花の
した水にかすかくはかり
ちるさくら哉
  長月はかり廣沢の
庵にて    仝
つらかりしねさめのをとも
わすられてあくれはひろふ
軒のさゝくり
  社頭暁
夜からすの霜に鳴音も
神さひてあかつきふかき
もりのともし火


【書き直し】
   落花               長好
思へども思はぬ花の下水に数書くばかり散る桜かな

   長月ばかり広沢の庵にて    仝 
(つら)かりし寝覚めの音も(わす)られて()くれば拾ふ軒の小栗(ささぐり)

   社頭の暁  
夜鴉(よがらす)の霜に鳴く()(かん)さびて暁深き(もり)灯火(ともしび )


 まず、落花。「水にかすかく」の数書くとは数取り、計数のために心覚えのしるしとして線を引く意で、「水に数書く」の形で、はかない、つまらない、むだであるなどのたとえにいう。
 万葉集巻11、2433「水の上に数書く如きわが命、妹に逢はむと祈誓(うけ)ひつるかも」。

 いくら私が愛しても、花はちっとも私に心を向けてくれない。その花が、池水に映った花影に対して、数取りをするかとばかりにひらひらと空しく散っている。
 私と花と二重の世界を描きつつ、両者に共通する「水に数書く空しさ」を詠んだ。

 次は秋の朝の歌。「長月」は陰暦九月。晩秋。
 広沢の池は京都市右京区の嵯峨広沢町にある周囲1.3kmほどの池で、そのほとりに小狭野屋(おさのや)はあった。軒端に柴栗の木があった。
 「さゝくり」は小粒の栗の意で、柴栗の異称。寝ていると、板葺きの屋根にカン、コン、ポンと音を立てて実が落ちる。
 その音で睡眠が妨げられる。熟睡できないのは辛いことだ。しかし、朝になって戸を開けると、地面に毬(いが)から弾けた小さな栗や、毬栗がいっぱい転がっている。
 皮を剥くのは面倒くさいが、これが食糧になると思えば有り難い。今日は栗雑炊を作ってみようか。
 辛かった寝覚めの音もすっかり忘れて、夜が明けると軒の柴栗を拾うことだ。「忘られて」は上代語。つい忘れて。

 三首目は「社頭」の冬の未明の情景。社頭は神社の周辺、境内。
 広沢の池の西南に児神社(ちごじんじゃ)という小さな神社がある。別の神社かも知れない。「落花」も「社頭暁」も題詠であるから、写実とは限らない。
 題詠は自分のいろいろな体験を合成して詠むものである。
 歌意は、霜の寒さに寝付かれず夜鴉が鳴いているが、その声も神秘的に古色を帯びて感じられ、まだ朝には程遠い深い森の中に火が灯っている。「杜」は神社の木立。

 わたしは小学校に入った頃、父親に反発して家出を計画した。
 漫画雑誌に衣食住の3要素のどの一つが欠けても生活は成り立たないと書いていた。確かにそうだ。この日本、どこへ行っても他人の土地である。
 子供の自分には自活能力がまったく無い。しかも、子供がひとりうろついていたら、人攫いに遭うか、警察に保護されてしまう。
 一度近所へ家出したが、母親にすぐ見付けられた。
 自活能力が出来るまで、親に養われるしかない。こうして、わたしの反抗期は終わった。

 そういう経験があったから、高校生になって『伊勢物語』の惟喬親王、『方丈記』の鴨長明、『徒然草』の兼好法師、『奥の細道』の松尾芭蕉を学んだ時、彼らの暮らしの背景を考えずにはいられなかった。
 この、広沢池のほとりに草庵を建てて暮らした長好法師についても、衣食住をどうしていたか考えてしまう。
 法師だから、夏と冬の着物と寝具があればなんとかなるだろう。土地の権利はどうしたのか。建物は最低限の板や草で作られていただろう。
 どうやって食べていったか、それは詩歌を教えたり、書いたりして謝礼をもらい、喜捨を受け、法事に呼ばれたり、時には空腹に耐えて生きていたのではないだろうか。
 彼の資料集を読んだら、そんなことも書いているだろう。
 この小品は、17世紀後半の京都広沢の草庵での体験をもとに、春の昼、秋の朝、冬の夜の三つの景色に絞って、感懐を書いていて、とても印象深い。
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