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『盲のキューピッド』 カール・ヴァン・ヴェクテン著






『盲のキューピッド』

カール・ヴァン・ヴェクテン著
アラステア挿絵
恩地源三郎・松本慎介訳


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Carl Vav Vechten, photographed by Man Ray, in Paris

私の作品の出版者にして友人でもある
アルフレット・クノップに捧げる





La vie est jour de Mi-Careme.
Quelques-uns se masquent; moi je ris.
CATULLE MENDES

人生は謝肉祭のようなもの
人々は仮面をつけ、私は笑い興じる
(カチュール・マンデス)
 





第 一 章


 ハロルド・プリウェットは黒胡桃材でできた広い椅子に腰かけていた。その椅子はなんとなく形が漠然とした大きな家具の一部で、椅子の上部は二つに枝分かれしてそれぞれの先端が鹿の角でできた帽子掛け、下部は両側が傘立てになっている。
 この鹿の角たるや、それだけも充分に陰気くさい代物で、この若者をとりまくたださえ重苦しい部屋の雰囲気をさらに気の滅入るものにしていた。彼が腰かけている部屋は控えの間だった。通りから玄関を入ってすぐの部屋で、一階にある他の部屋への入口と出口を提供し、トルコ紅色をした絨毯が敷かれ黒胡桃材の手すりのついた階段をのぼれば上階の各部屋へとつながる、いわばこの家の生活が流れる大動脈としての役割を果していた。
 重苦しい黒胡桃材の腰板がめぐり、そこからがっしりとした板張りの天井までの壁は、大時代なエンボスの花文字柄で飾りたてられた青銅色の壁紙が被っている。玄関と、そのむこうの通りに面した扉は両方とも開け放たれていて、そこから差し込む暖かな六月の光が、この場所の荘重な十九世紀風の陰鬱さをいくらか和らげていた。
 さらに階段の最初の踊り場にも、紫、青、緑のダイアモンド形ガラスを組み合わせたステンドグラスの窓があり、いま少しの光を取り込んでいる。この窓の下では背の高い置時計の巨大な振り子がゆっくりと左右に揺れながら、カチカチという単調な音で緩慢な時の流れを刻んでいた。


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“The Blind Bow-Boy” illustrated by Alastair



 ハロルド・プリウェットは魅力的な若者だった。栗色の髪に茶色の瞳、健康そうな顔色、そして立派な体格。
 いかに洗練された人物の眼から見ても文句のつけようのない五番街仕立ての茶のダブルの背広を見事に着こなし、胸元にのぞくネクタイのシックな色合いに若者の地味好みがうかがわれる。つい最近大学を卒業した若者だったが、彼の物腰にはそんな自信を感じさせるようなものはまったく見られなかった。
 なにやらそわそわと落ち着かない。これから誰かの面前で述べることになる口上のリハーサルだろう、なにやらしきりと口の中で呟いている。パナマ帽を神経質そうに指の間で玩び、ときおり立ち上がったかと思うとあたりを歩き回るのが、落ち着きのないこの行進も長くは続かず、すぐに鹿の角の下に舞い戻ってしまう。
 彼の不安の原因はいささか奇怪(グロテスク)なものだった。彼は自分の父親との話し合いに呼び出されていた。ふつう育ちの良い健康な若者が親と顔を会せるのに、いかにそれが短気で怒りっぽい親であったとしても、良心によほど疚しいところでもない限りそれほど気おくれなど覚えるものではないだろう。
 しかし彼の場合は、事情がいささか特殊だった。父と息子はまだ一度も顔を会わせたことがなかったのである。ふたりの出会いの遅延の事情を、父ジョージ・プリウェットの友人たちの何人かは知らないわけではなかったが、ハロルド本人にはまったく知らされていなかった。大学進学までの彼はコネチカットの伯母のもとで暮らしていた。たっぷりと小遣いを与えられ、ごく稀に父親の法律顧問から品行上の些細な点についての指示を受け取った。
 大学時代も休暇はかならず伯母のもとで過ごしたが、実の妹であるにも関わらず、恐らくはなんらかの指示のもと、彼の父の名を漏らすことは決してなかった。実際、父親が生きているのかどうかですら、確信を持てずにいた彼だったが、大学卒業の当日になって、いつもの弁護士から一通の電報が舞い込んだ。ニューヨーク西八十二番街にある彼の父の住いへ来るようにとの呼び出し状だった。終に父は彼息子と会うことを望んだのである。


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“Harold” illustrated by Alastair


 この父親の普通ならざる計画の性質に、いまハロルド不吉な恐怖を覚えていた。この二十一年間にわたり彼を養ってくれたのは紛れもなくこのよそよそしい父親だが、その事実を楯に、彼の未来についてなにか愉快ではない条件を押しつけてくるかもしれない。例えば息子を証券業界で働かせたい、あるいは服飾業界へ乗り出させたいとか。将来についてはまだいささか曖昧な状態のハロルドだった。これといった強い希望はないものの、いくつか強嫌悪を覚える職種があった。いずれ明らかになるはずのある理由から、服飾業界もそのひとつだった。
 そんな陰気な物思いに耽りながら、不機嫌な気分で、ハロルドは帽子掛けの下に十分、十五分と座り続けた。さらに五分が過ぎたころ、さきほど玄関で彼を出迎えた男の近づいてくる姿が見えた、ようやくあとわずかでこの不安から解放されるわけだ。たとえいかに不愉快な形であろうとも。

 男は言った「プリウェット様がお会いになられます」
 男が先導し、その踵にくっつくようにしてハロルドがつづく。赤絨毯の階段をのぼり、二階の廊下を進むと、つきあたりの閉じた扉をノックした。躊躇うような間を置いて、無愛想な「入りたまえ!」という声が、この一連の予備儀式を締めくくった。
 ハロルドの胸が早鐘を打つ。扉が開きまた閉じられたのも、執事が去ったのも、そして最後に彼自身がよたよたと部屋の中央まで進んだのも、すべて無我夢中の出来事だった。ようやく周囲に目を遣れるだけの落ち着きを取り戻してみると、彼は非常に広い書斎にいることに気づいた。その彼と向かい合って、一人の男が、恐らく彼の父親だろう、書斎机に屈みこむようにして書類の山に熱心に目を通しているようす。
 ハロルドは少し冷静になってきた。というのも机の前の男も、明らかに先ほどまでの彼と同様の不安と困惑を覚えていることに気づいたからだ。さらに暫し、静寂のなかで若者は沈黙を守って立ち続けていたが、やがて年上の男(ハロルドの予想よりもかなり老けて見えた)は立ち上がり、机越しに息子へ握手の手を差し出した。

 「こんにちは」彼の最初の言葉は不自然に押し殺したような声だった。
 ハロルドもこの決まり文句を返す。
 ジョージ・プリウェットは息子に椅子を勧めると、あたかもこの出会い、最初の言葉、過去と未来への思いにすっかり打ちのめされたかのように、もとの椅子に沈み込み、ふたたび書類の処理に余念がないかのような様子を装うのだった。
 この奇妙なゲームで怯えているのは間違いなく父の方なのだ、ハロルドはようやく確信すると、すっかり冷静になってきた。壁に寄せた書棚にずらりと並ぶ書物を眺め、さらに書棚の上の鋼版画からカーテンのかかった出窓へとその視線を移す。それから思い切ってふたたび、彼の存在など目に入らないかのような様子を不自然に装っている、半分頭の禿げあがったこの風変りな(エキセントリック)人物の方を振り返った。鼈甲縁の眼鏡をかけ、紫色のモヘアのスーツに身をつつんでいる。

 この喜劇的情景に突然幕がおりる。年上の方がふたたび口を開いた。
 「スポーツは好きかね?」彼はどこか厳しい調子で尋ねた。低いが不愉快な声ではない。
 「勝ち負けのあるスポーツはあまり。乗馬と水泳が好きです」ハロルドが答える。
 「フットボールや野球はどうだろう?」
 「どちらも苦手です」
 「結構!」
 これだけの情報交換に続いてまた暫しの沈黙。
 「ところで、これからなにがやりたいかね?」
 「わかりません。あなたの弁護士からは将来についてはなにも決めないように言われてきました。待つようにと」
「それで君はその指示を忠実に守ってきたのかね?」まるでそのことを切望しているかのような、ジョージ・プリュウィットの口ぶりだった。
「もちろん、生活の面倒をみてもらっている人物の指示ですからそのように努めました。でも一方で自分の将来のことですから、考えてみることも当然ありました。正直言って、嫌でたまらない職業というのはあります。」
「例えば?」喉にからんだ声で老人は問うた。

 ハロルドは顔を赤らめて躊躇ったのち、思い切って言ってのけた。
「服飾業界だけは嫌です。」
 今度はジョージ・プリュウィットの顔が紅潮する番だった。一見当惑に歪んだようなその表情の奥には、濃い安心と喜びの色が見て取れた。
「やはりおまえはわたしの息子だ! 抱きしめておくれ。」
 椅子から立ち上がった父親につられるようにしてハロルドも腰をあげた。若者の肩をしかと抱きしめる老プリュウィット。息子も恐る恐る父親の腰に腕をまわす。このぎこちない愛情表現の試みがこの親子にとっては精一杯だったとみえて、二人は肩を落とし、それぞれ元の椅子に座りこんだ。先に気力を回復したのは父親のほうだった。
「間違いなくお前はわたしの息子だ!」彼はまた繰り返した。「確かに息子だ! さきほどのお前の答えがわたしにはまるで音楽のように聴こえたよ。お前の口から聞きたいと望んでいた通りの科白だった。ところで、なにか忠告は受けていないかね?」最後に彼は少し心配げな口調になってたずねた。
「忠告? 誰からですか?」あきらかにあっけにとられたような口調のハロルド。

 ジョージ・プリュウィットは安心した。「そうとも、サンダーソンはわたしの信頼を裏切るような男じゃない。まして実の妹に限って。運命なのだ!望み通りの息子を与えられる運命だったのだ。もっとも、わたしが息子を望んだとすればだが。」胸底深く秘めた悲しみに想いを馳せ、彼は言葉を詰まらせた。
 だが気持ちの切り替えの素早さが彼の性格の特徴だった。「昼食はもうすませたのかね?」
「もちろんです、父さん。もう四時まえですから。」
「なるほど、そう言われてみればそうだ。気づかなかった。今日はとても忙しくて、食事さえ忘れる始末だ。まあよい、どうせもうすぐ夕飯の時刻だし、人間一日一食でもやっていけるさ。それはともかく、わたしはお前と出会って満足した、とういうより気に入ったというべきか。そう、確かにお前が気に入った。」
 ハロルドは黙っている。
 「さて、お前の今後についてだが、わたしがどの程度に関わりをもつつもりでいるのか、それを知りたいだろうと思う。それとも知りたいのはむしろ過去のほうかな?」
「それはお任せします。父さんが話したいと思われることだけでかまいません。」
「そういわれてもそれがなかなか容易ではない。この話を聞けばお前はわたしを嫌いになるかもしれない。なにしろお前とはまだ初対面だし、話の内容も若者にはどうも話しづらいものでね。だが、これだけは信じてもらいたい。わたしはお前が気に入った」彼は一息つくと、眼鏡の曇りを拭った。「さもないと、これから話そうとしていることは話しづらい、いや話せそうもない。」
「信じます、父さん。」
「そうか、では聴いてもらいたい」ジョージ・プリュウィットの手が震え、声もまたわずかに感傷的な調子を帯びた。

「お前の母親はまことに美しい女性だった。わたしが心から愛したただ一人の女性だ。彼女と結ばれたとき、わたしはすでに四十の坂を越えていたが、彼女のほうはまだうら若い娘だった。それから数か月後には、やがて子供が生まれるという嬉しい知らせを聞いた。生まれてくる子が男の子である可能性など思いつきもしないまま、わたしはただ愛らしい少女を頭に描いて、彼女の人生のための膨大な計画をたてた。それがどんな計画だったかをここでくどくどと説明はしないが、生まれてきたのが男の子だと知らされたときの失望のほどは察してほしい。だが、そんな悲しみも怒りも、主治医の口から、愛する妻の命があと数時間しかもたないと告げられた瞬間、すべては絶望の淵に呑みこまれてしまった」
 老紳士の口から嗚咽が漏れはじめた。彼は象牙のペーパーナイフを握りしめると机を何度か激しく叩いた。ハロルドは椅子に沈み込んだままじっと押し黙っている。

「妻はすでにわが身の運命を知り、逝く前に一目わたしと会いたがっているとのことだった。この別れのための出会いほど、わたしの人生で悲しかったことはない。詳しくは述べまい」彼は白い麻の大きなハンカチで額の汗を拭った「結果だけを話そう。死の床に横たわった妻は、いまならどんな約束でも断れないと見越したうえで、私からある誓約を引き出した。その誓約とはお前に関することだ。お前の母の死の床で、わたしは神にかけて誓ったのだよ、お前に大学教育を受けさせると」
「でも!」ハロルドの表情には明らかに驚きの色があった。
「黙っていてくれ!」父親は激しい口調になった。
「とにかく最後まで聞きなさい。なにひとつ隠し立てはしないつもりだ。お前を今日ここへ呼び出したのも、すべてを説明しようと思ってのことだ。そこで打ち明けるのだが、実はこのわたしは、大学教育なるものの犠牲者なのだよ。わたしは大学へ行ったものの…なにひとつ学ばなかった。
 来るべき人生へのなんの備えもないまま、大学の門を後にしたのだ。<卒業>! なんとも皮肉な言葉だ。<当惑>とでも呼ぶべきだ。なるほど、わたしはラテン語、ギリシア語、そして英語の散文を学んだ。数学や化学の法則も頭に入っていたが、この人生とその生き方についてはまったく無知のままだった。腕に技術はない。画才があるわけでもなければ文才もない。実際、教育によって何らかの生きる原則を確立できるどころか、人間関係そのものにおよそ不向きな人間になり果ててしまったことに気づいたのだよ。大学などへ行かなければもっとましだったはずだ。
 わたしの家庭は貧しくはなかったが、豊かといえる暮らし向きでもなかった。兄弟も多かった。善意からとはいえ、自活能力をなくすような道にみずから息子を放り込んでおきながら、いまになってその必要を説く両親。できるだけ早く職業を選んで欲しいという親の希望を前にして、わたしはただただ途方に暮れるばかりだった。
 宗教、法律、医学、どれも自分に向いているとは考えられなかったし、わたしの受けた教育も畑違いの分野だった。そうなると、地方の開業医だった父には援助のしようもない。困り抜いていたときだ、大学時代の友人から一通の手紙が舞い込んだ。その友人というのは、大きくなないがそれなりに繁盛している服飾会社を親父さんから受け継いだ男でね。わたしと同様、彼もすっかり弱気になっていた。
 会社経営にまったく自信がもてないというわけだ。そこで彼の頭に閃いたのが、わたしと組んで二人でやれば失敗の可能性を最小限に食い止められるのではないか、そんな考えだった。実業界のなんとも頼りない一角に潜り込むなどという碌でもない発想はそれまで思いつきもしなかったが、さりとて他になにかがあるわけでもなし、また自分なりに善き教育と考えたものを気前よく息子に与えてくれた父親に、なおこのうえ厄介になるわけにもゆかない、そんなことを考えた末に、結局わたしはこの友人の申し出を受け入れ、服飾業界に入ることになった。
 ハロルドは怯えたような眼を見開きながら、父の言いつけを守って口を差し挟むことは控えていた。
 プリュウィット老人の話は続く。「最初は失敗もずいぶん多かったがそれは仕方がない。だが、なにごとも慣れというか、問題なく会社を運営してゆけるとわかるのにさして時間はかからなかった。もっとも、妹のサディー、つまりお前を育ててくれたあと叔母さんだだが、もしも彼女がいなければ、はたしてお前になに不自由のない暮らしをさせてやれていたかどうか、それよりも結婚できていたかどうかも怪しいものだ。一八九七年のシーズンに大評判となったあの有名な<ニノン・ド・ランクロ(注1)・コート>、あれはわが社の筆頭デザイナーだった彼女の作品だ。あれは一世を風靡した。
 見本を進呈したポッター・パーマー夫人<注2>が公式の場にそれを着て出席したのがきっかけだった。押し寄せる注文の波に、それまでの限られた生産能力では応じきれず大きな工場を建て増した。それ以降、事業は順風満帆で発展しつづけた。ところがこの成功も、わたしにとってはそれほど意味のあるものではなかった。どだい興味を覚えなかった。
 大学へ行かなかったとすれば、わたしも適材適所で自分の身丈に応じた場所に自動的におさまっていたに違いない。鉄道の制動手が平水夫といったところかもしれないが、なんであれそれなりに意欲なり誇りなりを覚える仕事につけたはずだ。大学教育というやつはわたしをただ優柔不断な人間に仕立て上げただけだった。たまたま目先にぶら下がった機会に飛びつくのが精いっぱいの人間に。」

 老紳士の顔には沈痛きわまる表情があった。彼は一息ついてから話を続ける。
「生まれてくる子供が男の子なら、その子の人生でふたたびわたしの不幸が繰り返されるだろう、それを悟ったわたしは愛する妻が可愛らしい女の子を生んでくれることを祈った。もちろん彼女の落ち度ではないが、そんなわたしの期待は裏切られた。
 お前の誕生の知らせを聞いた瞬間、まず私が考えたことは、自分の嘗めた苦い経験から如何にしてお前を守るかということだった。そしてとっさに、大学へは行かせない、決して行かせないと心に誓った。大学に対するわたしのそんな感情も、妻にとっては愚かなことにしか思えなかったようだ。彼女が言うことは決まっていた。わたしは成功したではないか? このうえなにを望むのか? 財産をつくり、文学の善し悪しもわかり、楽しい旅もできる、それになによりも彼女と結婚できたのはすべて大学教育のおかげではないのかと。
 なるほど、理屈はたしかにそうではあったが、理屈でわりきれるものではない。あの途方に暮れた卒業の夏の記憶は、忘れようとしても忘れられるものではなかった。そしてその明らかな原因についても。天職とはついぞ思えぬ服飾業界などに首を突っ込ませた大学教育。できることならわが息子には同じ轍を踏ませたくない。妻はこんなわたしの胸中を知りぬいていたからこそ、死の間際に情に搦めて、お前を大学へ行かせるという約束をわたしに迫ったわけだ。そして、わたしは約束した。妻は息を引き取り、わたしは彼女の瞼を閉じてやった」

 こうした驚くべき経緯をもの語りながら、ジョージ・プリュウィットの視線はどこを見るともなく部屋のなかを彷徨っていたが、その目がこのとき息子の顔をしっかりと見据えた。
「女の子でなかったがゆえにお前を愛おしく思えなかったわけではない。お前が母親の死の原因になったという事実、それがわたしをしてどうしてもお前の顔を見る気にさせなかったのだ。彼女がわたしに相談もなくお前に<ハロルド>という洗礼名をつけてしまっていたことで、疎ましさはもうどうしようもないものになってしまった。わたしはすぐにお前を育てる手配をした。最初は乳母を雇い、その後は例の<ニノン・ド・ランクロ・コート>のデザインでひと財産を得て引退し、田舎で悠々自適の生活をしていた妹のもとに預けた。
 妻との約束は破らなかった。お前を大学へ行かせるという約束だ。最近になってようやくわたしの気持ちもほぐれてきた。結局、お前が男の子だったのはなにもお前の責任ではない。母親の死に関しても然り、ハロルドという名前にしたところでなにもお前の落ち度ではないわけだ。人なみの親子関係に戻る決心がつくと、今度は大学教育の悪影響をなんとかお前から拭い去る方法はないかと模索しはじめた。そして、一つだけ思いついた方法がある。」

 突然の静寂が舞い降りた。その沈黙の長さから若者は、そろそろ今度は彼が発言しても父親は異を唱えまいと判断した。
「父さん、さきほど服飾業界を嫌悪しているようなことを言いましたが、思ってもみなかったのです。つまり、父さんが…」
「もちろんそうだろう! だからこそ、わたしもあんなに喜んだのだよ。お前からはむしろ敵意も覚悟していたのに。」なんとなく曖昧な調子で父親は付け加えた。
「敵意だなんて! ここまでなに不自由なく育てて頂きましたし、お話しを聞いてみて、これまで会って下さらなかった胸の内もよく理解できました。敵意だなんてとんでもありません。服飾業…いえ、父さんのお仕事を手伝わせるおつもりもないと分かったいまはなおさらです。」
「仕事を手伝う! いっそ死んでくれた方がましだ! お前をそんな目にあわせるぐらいなら、会社などあっさり人手に渡してしまうよ! とにかく、万が一にもそんなことは起こらんのだから、もう話題にする必要もない。今日の会話で、私は嬉しいと同時にすっかり意を強くしたよ。お前が本当に素直なので安心したし、将来がまことに楽しみになってきた。当初の考えでは、二週間から一カ月をかけてゆっくりとお前との会話を進めてゆくつもりだったが、こうも順調にことが運ぶと先に延ばす必要も見当たらない。わたしがお前のためにたてた計画を今日この場で打ち明けてしまってもなんらさしつかえないだろう。」
「お聞きします。」
「では結論から言おう。わたしの判断では、お前の場合、現実の人生に取り組んでいけるだけの準備を整えるためには、なにかふつうとは逆の方法をとるしかない。すでに……なにか準備ができているかね? なにひとつできてはいない! 実際、頼りないものだ。だがお前はそのことを十分には自覚していないと思う。自覚することだ。人生をもっと知り、生きるということを学ばねばならない。これまで教えこまれてきたことの価値を疑ってかかることも大切だ。言い換えれば、自分の頭で考えることを学び、わたしではなくお前自身の個性を反映した職業、お前の誇りとなるような職業を選べるようになってもらいたいのだ。それがたとえどのような類のものであったとしても、経験と成熟した判断力の結果を示してさえいれば文句は言わない。というわけで、わたしは、多少実験めいたこと試してみることに決めた」

 たとえこの話し合いが、ハロルドが当初予想していたほど苦しい試練ではなかったにせよ、少なくとも驚きの要素にだけは事欠かなかった。ここでも若者の目元には驚いたような表情が広がった。
 ジョージ・プリュウィットの話は続く。
「お前に経験を積ませるといっても、世間に投げ出すわけにはいかない。そんなことをしようものなら、いますぐ仕事を選べてというのも同然、途方に暮れるのが落ちだろう。なにしろ、お前は世間の風にあたるには不向きな状態にされてしまっている。そこでわたしはお前に家庭教師をつけることにした。」
「すると、勉強を続けるわけですか?」
「勉強という言葉は当たらない。実際、お前は自分のやりたいことだけをやればよいのだから。それでも、お前の家庭教師は万事を心得て、人生の様々な道へお前を案内してくれるはずだ。多少は、その脇道にもね。ものを考える時間、あるいはお前の言う勉強に充てられる時間もあるかも知れない、書物などもいろいろ薦めてくれるのではないかな。
 そこはある程度彼の自由に任せてある。なにしろ、わたしが見つけ出したその青年というのは、気味が悪いぐらい、わたしが求めていた理想にぴったりなのだ。それこそ万事彼の自由裁量にまかせてもかまわないと思っているほどだ。」
「質問してもいいでしょうか……?」
「いいとも、むろんいいとも。だが話はもうすぐに終わる」ハロルドの父親はいくらか苛立たしげに言った。「この青年と知り合ってまだ日は浅いが、わたしにとっては大切な友人だ。彼とは広告を通じて知り合ったのだが」
「広告ですか!」
「そう、広告だ。あらいざらい打ち明けるがね。これがその広告だ」プリュウィット氏はごった返した机の上から一枚の新聞の切り抜きをつまみあげて読み始めた」
「求む。好人物にして倫理観の欠如した男子。三か国語を能くし、ユーモアのセンスを備えた人物。自らの経験に根ざす読書体験を重ねた独学の士が望ましい。なんらかの社会的醜聞(スキャンダル)の主人公であることが不可欠の条件。年齢三十歳まで。適任者には相応の報酬をもって応ず。……気付」ハロルドの愕きが少しずつ恐怖に変わってゆき、やがてはパニックに近い状態になった。

「それで、ひとり見つかったわけですね……そんな人物が?」口ごもりつつ彼は尋ねる。
「十二人だよ。少なくとも十二人。広告には二百人からの応募があった。二十年間にわたってお前の出生の事情をごまかし通した例の有能きわまる弁護士の手を借りて、見込みのありそうな二十通を選び出した。それらの手紙の差出人とは、わたし自身が個別に面接をした。その結果十二人に絞られたわけだ。語学力とユーモアのセンスにおいてはおおむね全員が問題なく、倫理観の欠如という点を含めても確かに数人が条件に適っていたが、社会的醜聞に関して完璧に資格のあるのはただ一人だけだった」
「でも、そんなことがなんの役に立つのか、僕には……」
「むろんお前には無理だ。教育のおかげで、お前の心はこうした発想を受け入れられなくなってしまっている。だから手間ひまかけて説明はしない。いまはただ、この青年はわたしにとっては掌中の珠にも等しい存在であることを教えておけば十分だろう。かれとは何度も話し合った。弁護士は弁護士で彼の人生を洗いざらい調べ上げ、逐一問いただした。結果は、生活態度、過去、現在のすべての点でまったく申し分のないものだった。見事なまでに無責任かつ不道徳、すなわちなんの躊躇いもなくわが息子を預けることのできる人物だ。」

 若者にとってはまさに驚愕の内容だった。訊きたいことは山のようにあったが、父親の顔色を見て、質問は一つだけにしておいた方が無難だと判断した。
「その人はなんという名前ですか?」
「ポール・ムーディー」
「妻への離婚慰謝料の支払いを拒否してラドロウ連邦刑務所<注>へ投獄されたあのポール・ムーディーですか?」
「同一人物だよ」
「数カ月まえの新聞は彼のことでもちきりでした!」
「そうだったな。それはそうと、あまりだらだらと話し込むのも考え物だ。おまえにはまだ今度のことを十分に理解できるだけの下地ができていないし、これ以上話し合いを続けてゆくと二人の間に不愉快な感情が芽生えてこないとも限らない。なにしろすっかりお前を気に入ってしまったわたしのことだ、可愛さあまって怒鳴りつけるというようなことにもなりかねない。そこで、さしあたってはこれまで通り、おたがい別々に暮らしがほうが良いと思う」
 若者はなにかを言おうとした。
「黙っていなさい。別々に暮らすのだ」ジョージ・プリュウィットはじっと天井をにらみつけながら言った。
「そのつもりで、西十八番街におまえのためのアパートが借りてある。ムーディーの住まいはグラマシー・パーク<注4>だ。これが鍵。住所も書いてある。むこうへ行けば分かるが、アパートはすぐにでも住めるようにしつらえてある。それから、おまえの世話をみてくれる男も一人雇ってある。
 彼にはせいぜい面倒を掛けてやって欲しいと思っている。もしも他の場所へ引っ越したいとか、もっと広い家に移りたいといったこともお前の自由だ。その方面のことはサンダーソンが相談にのるが、金銭のことは一切気にしなくてもよいとわたしがここで請け合っておく。ムーディー君はかならずお前になにかを吹き込んでくれるだろう。だが、いつかお前に自分自身の考えがめばえたときには、その考えを実行するのを喜んで手伝ってくれる人物のはずだ。

 さしあたり、われわれは以前の関係に戻ろう。今日から一年後、なにを学んだかを報告するためにここへ戻ってきなさい。お互いが交際するうえでの然るべき基礎ができて初めて、お前の将来について話し合うことも可能になるというものだ。世慣れた男になっているだけではなく、わたしの素晴らしい友人として戻って来てくれることを心から期待している。話はこれだけだ。それでは、元気でな」
 最後の言葉には、精根尽き果て、ようやく肩の荷を下ろせてほっとしたといった響きがあった。
「父さんもお元気で」ハロルドも当惑しつつ同じ科白を口にしていた。



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<注1> ニノン・ド・ランクロ(Anne LenclosNinon de Lenclos/1623-1705)
 フランスの貴婦人。パリ生まれ。15歳で孤児となり、自分の自由意思で身を処することとなった。恋多き女性で、恋人としてラ・ロシュフコー公爵、ランブイエ侯爵はじめ多数の当代名士が名を連ねたが、彼女はなによりも自分の自由な生活を重んじ、男性に縛られない生活を貫き、社交界に大きな影響を与えた。

<注2>ポッター・パーマー(Potter Palmer/1826–1902)
 アメリカ合衆国の実業家。シカゴのステート・ストリート(State Street)の大部分を開発したことで知られる。夫人はバーサ・・パーマー(Bertha Palmer/1849–1918)。社交界の花形であると同時に社会福祉活動家としても知られた。

<注3>ラドロウ監獄(Ludlow Street Jail)
 ニューヨーク市マンハッタン区にある連邦刑務所。主に債務関係の犯罪者が収監される。

<注4>グラマシー・パーク (Gramercy Park)
 ニューヨーク市マンハッタン区にある私設公園。繁華なパーク・アヴェニューから1ブロックほどの距離にありながら周辺は閑静な住宅地。公園の周囲はフェンスで囲まれ、年間使用料を払って入り口の鍵を貸与された周辺住民しか利用できない。





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Carl Vav Vechten, photographed by Saul Mauriber,
After A Photograph of Salvador Dali by Halsman,
New York, 1944

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