猫に寄せて カール・ヴァン・ヴェクテンのことなど



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毎朝七時頃に起きて、コーヒーを淹れる。天気が良いと庭でしばし読書。
悪い癖があって、いつも四五冊を同時に並行して読む。テレビのチャネルをどんどん切り替えながら見ている人がいるがその類で、集中力、持続力に欠陥があるようだ。
例えば今は、サマセット・モームのエッセイ風中国旅行記「中国の屏風(小池滋訳)」、中村文則の芥川賞受賞作「土の中の子供」、柴田宵曲の俳諧随筆「蕉門の人々」、ジョルジュ・シムノンの小説「ベベ・ドンジュの真相(斎藤正直訳)」そして水木しげるの自伝漫画「水木しげる伝」といった具合。
女房などは、よくストーリーが繋がるものだと呆れている。
君などとは頭の出来が違うのだと言って澄ましているが、実際はまま繋がらない。
 

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今朝は「中国の屏風」を持って出た。
モームは小説の達人だが、エッセイも面白い。皮肉なユーモアに味わいがある。
椅子に腰かけ、コーヒーを飲みながら「阿片窟」という題の一篇を読んでいると、なんとなく右肩のうしろに気配を感じる。
振り返ると、隣家との境にあるブロック塀の上に虎猫。その目がじっと僕の手元のモームを覗き込んでいる。
わが家の塀が猫道になっているらしく、こいつとはよく顔を会わせる。トラネコは視線を僕の顔に移し、しばし見つめていたが、やがて無言のまま塀の上を去っていった。
なんだか小馬鹿にされたような気分になった。僕は猫好きではない。



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猫の顔を見て思い出したが、モームは作家志望の息子をもつある婦人に宛てた手紙のなかで、彼の考える完璧な小説の見本としてカール・ヴァン・ヴェクテンというアメリカ作家の作品『刺青のある伯爵夫人』を挙げ、息子に読ませることを勧めている。
実は、僕も1920年代に活躍したこの作家が大好きだ。
F・スコット・フィッツジェラルドとともにジャズエイジを代表する作家だが、30年代になると写真家に変身、今ではむしろ彼の撮影した著名人の肖像写真で知られている。
F・スコット・フィッツジェラルド、ガートルード・スタイン、トーマス・マン、トルーマン・カポーティ、ベッシ―・スミス、ビリー・ホリデイ、マーロン・ブラント…等々。
よく見るモームの写真もまた彼が撮影したものだ。

   
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ところで猫。
このカール・ヴァン・ヴェクテンという人は『家の中の虎 Tiger in the House』というタイトルで、猫と人類との関係に関するいまではこの分野の古典と云われる研究書まで書いてしまうほどの猫好き。
当店の在庫に、ヴェクテン自筆の手紙や葉書、クリスマスカードなど十数点があるが、それも猫の図柄が多い。
蔵書票にも猫がいる。ネコ、ネコ、ネコ。ゲイ用語にも「ネコ」という言葉があったような…そういえば、サマセット・モームと同様、ヴェクテンもホモセクシュアルであったことが死後に判明した作家。
78歳のヴェクテンが48歳のポール・ボーウルズの肩を抱いているなんとも妖しい雰囲気の写真が手元にある。
話が脱線してしまいました。本来は「猫」と作家です。


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「吾輩は猫である」のワガハイ、名前は最後までつけて貰えなかったようだが、結構大切にされて早稲田の家で長寿を全うし、庭に葬る際に漱石先生は一句をしたためて墓標とした。
「この下に稲妻起こる宵あらん」。猫好きだったかどうかはともかく、敬愛する漱石先生も猫を飼っておられた。
門下の内田百閒ともなれば、愛猫ノラの失踪に涙に掻き暮れ、新聞広告までだす始末。
萩原朔太郎『猫町』、谷崎潤一郎『猫と庄造と二人の女』、エドガー・アラン・ポー『黒猫』、シャルル・ペロー『長靴を履いた猫』等々…猫嫌いの僕でも読んだことがある。
どうも優れた作家は犬よりも猫にシンパシーを感じるらしいのです。


朝の読書を猫に邪魔されたあげく、変な連想から、猫好きに劣等感を抱きそうな気配になったが、そこでふと思い出した。
わが家にも猫がいるではないか。そう、僕も猫を飼っているのです。
ただ、この「家の中の虎」は日夜爪を磨き、折あらばその爪を僕に突き立てんものと虎視眈々と機会をうかがっている。
僕はそうはされまいと、日夜機嫌をとり、喉を撫で…そのときこの猫の声がした「あなた、電話ですよ」。